割と遠い日の思い出

歌う鶯を見上げるのを止めて、彼は私と視線を交わす。
彼なのか彼女なのか実はよく分からないのだが、
その時の印象から、彼は彼なのだと今でも思っている。
切れ長なその眼差しは私の瞳孔を突き破って、
遥か彼方を見ているのではないかと感じるほど鋭敏だったのだ。
若干背筋が凍りつくのを感じはしたが、目を背けることが出来ない。
肉食獣に睨まれた小動物の気持ちとでも表現するのだろうか。
否、怯えを感じて射竦められたのでは無く、
それ以上に抱いた感情で魅かれ続けているのだ。
無駄な肉のない痩身に、やや毛先が乱れた漆黒。
その漆黒に手が吸い寄せられていく。
あと僅かで存在を確かめられると確信した瞬間、
彼は低く唸り、身を翻して遠ざかる。
…しまった、とんでもないことをした。
確かめたいとした瞬間に確かめるべき対象を失ってしまった。
深く悔いながら、彼が走り去っただろう方角を追う。
彼はまだそこにいた。
数メートル先で尻尾をピンと立てながら、顔だけこちらを向いて様子を窺っている。
私が足を踏み出すと、踏み出した分だけ彼は遠のく。
しかし逃げ去るわけでは無いようだ。
僕に興味があるなら―ついて来てごらんよ、とでも言いたげな。
誘われるままについて行くと、坂の下の小さな古本屋の前に出た。
この街にはこんな道があったのか、そしてこんな店があるなんて知らなかった。
古本屋の前でこちらを向き直し、
尾を体の周りに沿わせるようにして座る彼。
恐る恐る近づいてみるが、もう去ろうとはしないらしい。
お互いの瞳の色を確かめ合うかのように、
一瞬とも永遠ともわからぬくらいに、
ただただ、見詰め合ってみる。
思えばこんなにじっくりと瞳をみたことがあっただろうか。
家族とさえ、好きだった同級生のあの娘とさえ無かったんじゃないか。
君が初めての相手とはね。
やや自虐に満ちた吐息を洩らしながら腰を屈め、
距離はさらに近いものとなった。
一瞬目を瞑ったものの、すぐに視線を私の中に送ってくる。
額同士がくっ付いてしまうのではないかと思うくらい近づいて見ると、
彼の瞳の中に私が入り込んでいるではないか。
君も君を私の目の中で見ているのか。
もう一度、もう一度手を伸ばしてみる。
結構シャープな顎をしてるね、そう言いつつ首から顎の下を撫でる。
彼は動かない。
映った姿が自分自身と気付いているのだろうか。
どうしてこいつも喉を撫でられているのだろうか。
私には彼の見たものが見えないが、もしかしたらそう思っているのかもしれない。
今なら触れるだけでなく、抱き寄せることも出来るかなと感じたが、
こうしていられる幸せが崩れてしまう気がして…それ以上のことは出来なかった。
撫でて見つめることができる喜びと、それしか出来ない葛藤が疼き始めた頃、
古本屋の塀から猫がこちらを見ているのを感じた。
彼は初めて目を逸らし、塀の上をサッと眺めてまた私を見た。
どこから来たのかわからない疼きがさらに大きくなる。
あれは君の家族かい?それとも友人?いや、彼女かな?
まだ彼は私を直視しているが、私はもう直視できないようだ。
とにかく―君の仲間が待っている。
もうお行きと押し出してやると、彼は何度も振り返りながら仲間の下へ歩いた。
ずっと屈んでいたので腰が痛い。
呻きながら立ち上がり、上体を何度か逸らす。

不思議と溜息しか出てこない。
彼が彼の生活をすることに、どうして嫉妬しなければならないのか。
享受できたことを否定してまで、何もできない手を伸ばすのは何故。
一体私はどうしてしまったんだろう。
ここまで来てしまった理由を付けるべく、
知らない小説家の文庫版を買って帰る。
一応は彼と来た場所だ。
もしかしたら何か感じるものがあるかもしれないな。
彼が彼なのか彼女なのかは未だに知らないけど。